教育ニ関スル勅語(教育勅語)

大阪市の私立塚本幼稚園での朝礼の様子です。

教育勅語を学校に上がる前の子供に教える幼稚園!!
とても感心しました。
同時に自分の事をかえりみると恥ずかしさでいっぱいになります。

戦前は学校で教育勅語や修身が教えられていたことを聞いてはいたのに。
まだ祖父母が健在な頃のことでした。
興味もなく「ふ〜ん、そうなんだ」と生返事を返すだけの孫に祖父母はどう思っただろう。
想像すると残念でしかたありません。

近年になってからは「来週は調べて覚えよう」と思うだけで時間が経ち、
やっと勉強を始めてみると度々このような、ちょっとしたパンチに見舞われます。

でも気を取り直し、放っておいた不学習を取り戻すために次に進みたいと思います。


   【 教育二関スル勅語(教育勅語)について 】

明治5(1872)年、日本で近代化が始まりました。
学制が公布され義務教育になり、全国に学校が設置されました。
社会自体が西洋化に傾き、教育も近代化の名のもとに西洋文明を急いで取り入れるあまり、
日本の伝統的な精神がおろそかにされて行くばかりでした。
教育の場は技術革新のために力を注ぎ、西欧の科学教育、理工系が中心です。

当時の指導者の立場からすると、西洋の列強国脅威から日本の独立を護るためには、軍事技術や産業をさかんにして生産を増やすことが大事だったのでしょう。

しかし、この日本精神を忘れ西洋文明一色という風潮と、それに基づく教育に深く憂慮されたのが明治天皇だったのです。
明治天皇はまず伝統や道徳を基礎として、そのうえで西欧の科学や技術を取り入れることこそが日本の将来の人材を育てる、とお考えになったそうです。

また同時に地方の長官会議などで国民のなかからも同じ心配をする人達が声をあげ始めました。
明治23(1890)年に地方長官たちから道徳教育の基本的な方針確立の提案が内閣に出されました。
その後「教育に関する勅語」の草案がつくられることになったのです。

最初に書かれた草案では、宗教的概念や起草者の哲学的な影響があらわれているとして多くの問題点が指摘され、廃案になります。

次に草案作成に携わったのが、当時の法制局長官の井上毅と儒学者の元田永孚(ながさね)でした。
明治天皇からの要望も出され草案に修正が加えられていきます。
この草案には条件があったそうです。
それは

 *日本は立憲君主制であり君主は臣民の良心の自由に干渉してはならない  ので、政事上の命令でなく君主から教育の方針を示すものにする

 *宗教上、哲学上の論争の元となる可能性を避ける
 
 *明治天皇のお言葉でなく当時の政治家の示唆だと受け止められるものに  してはならない

 *漢学的な表現や西欧的な精神がみてとられるものにならないこと


これらの条件からも教育勅語の意図は純粋に「これまで養ってきた良識を大切にする、日本の教育の方針を立てようとした」ということがわかります。

こうして明治23年10月30日「教育ニ関スル勅語」が発布されました。

発布直後は哲学者とキリスト教徒との論争などもあったそうですが、次第に根付いていき教育全般のベースとなりました。
戦前までは「修身」という道徳教育の科目があり、尋常小学校(当時の名称)6年の教科書で教育勅語の解説がなされていたそうです。

明治38(1905)年、日露戦争に勝利した日本は世界を驚かせ、また、これまでの日本の教育に注目が集まりました。
なかでもアメリカ人に教育勅語の英訳が最初に紹介されると、これに賞賛の声が寄せられたそうです。
後に仏、独、漢訳もされ世界各国に配布されました。

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その後日本が敗戦した時に、アメリカ国務省と連合国極東委員会は教育勅語を全面禁止にする決定を下しています。
しかも、GHQ内の民政局は直接この件に介入出来ないルールがあったため、日本の衆参両院の文教委員長に圧力をかけ国会で日本人自らが廃止の決定を下すように仕向けたのです。

こうして教育勅語の謄本は、全国の学校から回収され東京の多摩川の河原で焼却処分されてしまいました。

廃止の理由は「軍国主義教育の象徴・封建的な古い道徳で、民主主義教育にはそぐわない」との表看板ですが、本心はどうでしょう。

教育勅語そのものは全世界、人種に関係なく有益なのは戦前に多くの国が認めています。

日本人が「良い行いをこころがけ、勤勉で働き者の国民」として天皇の下(もと)にひとつの大きな家族『国家』としてまとまると非常に都合の悪いのは何処の国々でしょう?

教育勅語の廃止は一見すると軍国主義を排除するためのように見えます。
しかしそれだけではないのは近年あきらかになったGHQの占領政策からも推測ができます。
「白人世界の脅威になり得る日本をもっと深いところから弱体化しておきたい。」
「それには日本の根源的、精神的な部分を存続させないことが重要だ」 と分析したと言えるのではないでしょうか。

当時欧米が打った手が今日にいたるまで長くよく効いているのは、(自戒も含め)現代の様々なタイプの日本人の思考や人間性に見てとれます。

日本では近年「戦後を終わらせる」気運が高まりつつあるようです。
今一度、日本人の精神のあらわれである教育勅語を学ぶことは、戦後を終わらせるためにも多いに役に立つことと考えます。


   【 教育ニ関スル勅語 】

ちんおもうに わがこうそこうそう くにをはじむることこうえんに
朕惟フニ   我カ皇祖皇宗    國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 
 
とくをたつることしんこうなり わがしんみんよくちゅうによくこうに
紱ヲ樹ツルコト深厚ナリ    我カ臣民 克ク忠ニ克ク孝ニ 

おくちょうこころをいつにして よよそのびをなせるは
億兆心ヲ一ニシテ       世世厥ノ美ヲ濟セルハ

これわがこくたいのせいかにして きょういくのえんげん
此レ我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源

またじつにここにそんす
亦實ニ此ニ存ス

なんじしんみん ふぼにこうに けいていにゆうに ふうふあいわし
爾臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ

ほうゆうあいしんじ きょうけんおのれをじし
朋友相信シ 恭儉己レヲ持シ

はくあいしゅうにおよぼし がくをおさめぎょうをならい
博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ業ヲ習ヒ

もってちのうをけいはつし とっきをじょうじゅし
以テ智能ヲ啓發シ 紱器ヲ成就シ

すすんでこうえきをひろめ せいむをひらき
進テ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ

つねにこっけんをおもんじ こくほうにしたがい
常ニ國憲ヲ重シ 國法ニ遵ヒ

いったんかんきゅうあれば ぎゆうこうにほうじ
一旦緩急アレハ 義勇公ニ奉シ  

もっててんじょうむきゅうのこううんをふよくすべし
以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

かくのごときは ひとりちんがちゅうりょうのしんみんたるのみならず
是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
またもってなんじそせんのいふうをけんしょうするにたらん
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
このみちは じつにわがこうそこうそうのいくんにして
斯ノ道ハ 實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ

しそんしんみんのともにじゅんしゅすべきところ
子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所

これをここんにつうじてあやまらず
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス

これをちゅうがいにほどこしてもとらず
之ヲ中外ニ施シテ悖ラス

ちんなんじしんみんとともに けんけんふくようして
朕爾臣民ト倶ニ 拳々服膺シテ

みなそのとくをいつにせんことをこいねがう
咸其紱ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
  御名御璽 


   【 口語文訳 】

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

  国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

  このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

〜国民道徳協会訳文による〜


   *** 教育勅語の書写 ***

明治神宮のHP内『教育勅語を書いてみましょう』から書き写しのための用紙がDLできます。
明治神宮-教育勅語を書いてみましょう-
明治天皇がお示しになった「たいせつなこと」にふれてみましょう