日本人よ、対馬に行こう! 【転載】

ブログ さくらの花びらさまの「日本人よ、誇りを持とう」
輝かしい日本の発掘   より転載させて頂きました。
この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31630378.html

   【転載】ここから

「5月27日」と聞いて何と思うか?
今の日本人に訊いても「?」としか思わないのは当然であります。
しかし、戦前の人に訊けば「海軍記念日」とかえってくるのです。
それほど日本にとっては絶対に忘れることのできない大切な日であったのです。
国が滅ぶかどうかの境目、まさに「皇国の興廃この一戦にあり」でありました。
日露戦争での最終局面であった日本海海戦の日であります。

当時、敵艦バルチック艦隊は対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡のどの航路を取ってウラジオストクに向かうかが大きな判断でありました。東郷平八郎司令長官は燃料から言っても最短の対馬海峡であろうと想定し、対馬で待ち伏せをしていました。
マラッカ海峡を通るバルチック艦隊を見ていた現地人は「日本兵は強いが、これほど立派な艦隊にはかなわないだろう。やはりアジア人は白人には勝てないのだ・・」と言った。
そして5月27日、バルチック艦隊は対馬海峡に姿を見せたのです。
「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動之を撃滅せんとす 本日天気晴朗なれども浪高し」と打電して全軍出動を命じたのです。・・・

対馬は古代から人の流れと、大陸の文化の摂取するための使節の派遣などにより、さまざまな大陸文化が対馬と壱岐を経由して日本に流れこみました。
7世紀には白村江の戦いにより国境が確定し、新羅と唐に国境の島・対馬は常に緊張の最前線にさらされることになりました。
その一方で、鎌倉時代から江戸幕末まで宗家が対馬を統治し、戦国時代から現代まで戦場にならなかったため、対馬には歴史や民俗の資料が温存されており歴史を知るものがたくさんあるのです。

福岡空港から25分で着く対馬。
現在、3万5千人ほどのこの島は過疎、高齢化の中、地元振興にあえいでいます。
漁業も公共事業も厳しい中、国境の島・対馬はどうやって島を維持していくのか。

対馬は多くの日本人が知らない間に韓国観光客が大勢来るようになっていました。
産経新聞で自衛隊基地の隣の土地を韓国資本が買い取ってホテルを建てたと掲載されました。しかもそのホテルからは自衛隊が丸見え、その土地は昭和天皇の行幸啓された真珠工場であり、行幸啓の碑も建てられていたところです。これを知った保守の国会議員の先生方が現地調査に行くほどの衝撃でありました。

日本人観光客は日本の国境の島にはほとんど目もくれず、韓国やシナにはせっせと出かけて行きます。出来た観光庁も「観光立国」という名のもとにシナ人ばかりを呼び込むことしか頭にないようでした。
日本政府があてにならない中、対馬は自活して行くためには背に腹は代えられません。島にやってくる韓国人をあてがった観光事業となるのは当然の成り行きであります。対馬は日韓交流事業として江戸時代の朝鮮通信使行列を再現した「厳原港まつり対馬アリラン祭」を行ったりして韓国人観光客を呼び込みました。
しかし、今年に入って対馬で韓国人による「仏像窃盗事件」に端を発した韓国の非常識な対応のために、これら事業を中止するようであります。当然のことでありましょう。

マナーの悪い韓国人には辟易している対馬の人たち。しかし、日本人が来てくれないので生活していくためには我慢して韓国人を相手していかなければならない。これが本音でありましょう。

先ほどの日本海海戦ではこのようなことが対馬で起きました。
日本海軍に撃沈されたバルチック艦隊のモノマフ号の水兵たち143名は4隻のボートに分乗して、対馬の殿崎に漂着しました。漂着したが怪我と、寒さと、空腹と、のどの渇きで苦しんでいたロシア水兵に気づいたのが、ちょうど農作業をしていた農婦らでした。彼女らはロシア兵を水の湧き出る泉に案内し、民家に案内し、食べ物を与え、お風呂を与え、服を与え、医師による手当てまでさせ、ロシア兵を手厚く看護したのです。その後、元気になったロシア兵が対馬から離れる時に互いに涙を流して別れを惜しんだのでありました。

後にこの話を聞いた東郷平八郎元帥は大変感動し、「恩海義喬」と書きました。
「戦争で死の海となった対馬の海が恩愛の海となった。対馬の人たちの義は気高いものだ」という意味です。
殿崎の「日本海海戦記念碑」に東郷元帥の揮毫があります。

同じく対馬の茂木原でのことです。ナヒモフ号のロシア兵たち99名が上陸し、住民らによって手厚い看護を受けました。
住民は「敵兵であっても祖国のために戦った勇者だ」と敬意を表してロシアに帰したと言います。
昭和55年、ナヒモフ号の大砲が海中から引き揚げられ、記念碑とともに設置されています。


 明治44年 殿崎記念碑建立


 海幸彦山幸彦の伝説の発祥の地(対馬市豊玉町)

   【転載】ここまで