かわいそうな象〜真のかたい友好と絆は口先ではなく心がつながることです 【転載】

大正15(1926)年、東京文京区にある護国寺で初めて象の供養が行われたそうです。
それが今日、4月15日。
「象供養の日」と東京象牙美術工芸協同組合が制定したそうです。
HPによると「奈良時代(8世紀)には正倉院宝物の中の“紅牙撥鎮尺”などに象牙が含まれており、その頃には象牙が伝来していました。」
日本がこんなに昔から象さんにお世話になっていたとは知りませんでした。
今日はこれよりずっと現代に近い第二次大戦中の象さんのお話を転載させていただきました。
*このエントリーは昨年よそで始めたブログ(現在休眠中)で一旦掲載したものです。

Yahoo!ブログ さくらの花びらさんの
「日本人よ、誇りを持とう」輝かしい日本の発掘  
から転載させて頂きました。
この記事のURL: http://http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31208204.html#31208204

   【転載】ここから


ネルー首相と娘さん、そして象のインディラ(上野動物園にて)

戦争中、上野動物園では米軍の爆撃で檻が壊され、猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう薬殺などの処分が行われました。象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。
戦後、インドのネルー首相が、上野動物園がある台東区の子供たちの熱望に応え、再び上野動物園に象が飼われるようになりました。
昭和24年、ネルー首相は娘の名前を付けた「インディラ」を贈ってくれました。

インドのネルー首相が少年の頃、インドはイギリスの植民地支配から抜け出そうと独立運動を行っていましたが、とてもイギリスには歯が立ちませんでした。
しかし、その頃、同じアジア人がとてつもないことをしました。
日露戦争で日本が大国ロシアに勝利したのです。

この時のことをネルー首相はのちにこう書いています。
「日本が勝ちました。大国の仲間入りをしました。アジアの国、日本の勝利は、全てのアジア諸国に計り知れない影響を与えたのです。少年の私がこれにいかに興奮したか。この興奮はアジアの老若男女全てが分かち合いました。欧州の大国が負けました。アジアが欧州に勝ったのです」
この時、ネルー少年は日本に勇気と希望を与えてもらい、自分たちもやればできると強く思ったのです。

その後、大東亜戦争で日本がインドをイギリスの植民地から解放するために命をかけて貢献しました。ネルー首相はそれもしっかり見ていました。
しかし、その後の日本を見たネルー首相は、「敗戦で打ちひしがれていた日本を元気づけたい」と思い、象を欲しがっている日本の子供たちに次のような文書を贈りました。

日本の子供たちへおくる言葉
皆さん 私は皆さんのお望みによって、インドの象を一頭皆さんへお贈りすることを大変嬉しく思います。この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、そして聞く所によりますと、体に縁起の良いしるしをすっかりそなえているとの事です。

皆さん、この象は、私からのではなく、インドの子供達から日本の子供達への贈物であるとご承知下さい。世界中の子供達は多くの点で似かよっています。
ところが大人になると変わり出して、そして不幸な事には、時々喧嘩をしたりします。
私達はこの様な大人達の喧嘩を止めさせなければなりません。
そして、私の願いはインドの子供達や日本の子供達が成長した時には、おのおの自分達の立派な祖国のためばかりにではなく、アジアと世界全体の平和と協力のためにも尽くして欲しいということです。
ですから、このインディラという名を持った象を、インドの子供達からの愛情と好意の使者として考えて下さい。

インディラは東京でたったひとりぽっちで、あるいは少しさびしがって遊び友達を欲しがるかも知れません。
もし皆さんのお望みならば、インディラがこれから自分の住家としてゆく新しい国で幸福になるように、お友達の象を一頭送るようにすることも出来ます。

象というものは立派な動物で、インドでは大変に可愛がられ、しかもインドの特に代表的なものです。象は賢くて、しんぼう強く、力が強く、しかも優しいものです。
私達も皆、象の持つこれらの良いところを、身につけるようにしてゆきたいものです。
おわりに皆さんに私の愛情と好意とを贈ります 
ジャワハルラル ネルー 1949年9月1日 ニューデリー

このインドの好意はその後も続いて、四頭目の象には「スーリア」が贈られました。「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」という意味で、これは「日出ずる国」である日本にちなんで命名されたといいます。

インドの独立記念日は8月15日で、イギリスからの独立を記念する日です。
このような国の特別の祝日には、どこの国の在外公館でもお祝いのパーティーを開きますが、在日インド大使館だけは、この日が日本人にとって大東亜戦争の戦没者を追悼する特別の思いがこもった日であることに配慮してパーティーをやりません。
代わりに日本の国花である桜が満開の春の時期を選んでパーティーを開くことにしています。

昭和40年から41年、インドでは大飢饉に襲われ多くの国民が食糧難で困っていました。これを受けて、昭和41年3月に台東区町会連合会定例会において「インド飢餓救援の募金」を決めました。
これは、かつて台東区の子どもたちが中心となって象の招致運動をした際に、ネルー首相から象のインディラが贈られ、その恩をお返ししようと募金を計画したものです。

早速、その翌月の4月と5月の2か月を募金の期間としました。
動物園のある上野地区は4月10日に80万円を集めて台東区へ届けてきました。
集まった救援募金は当時の額で総額343万1403円にもなり、インド大使館アイ・エス・メーター書記官に手渡されました。
当時、昭和41年6月5日の台東区民新聞には、「江戸っ子の人情でかたい友好の絆が結ばれた」と書かれていました。

   【転載ここまで】

 若い世代のかたはどうか分かりませんが、昭和30年、40年代生まれのかたの間ではこのお話を知るかたも多いのではないでしょうか。
学校は「戦争は悪い、繰り返してはいけないもの」と子供に教えようとしたのでしょうが、私はちょっとズレた影響を受けた、という付録のお話です。

 私が初めてこの話を担任の先生にしてもらったのは小学一年生のときでした。
天気の良い日のお昼休み、絵本を片手に先生が「お話読むからみんな出ておいで」と声をかけます。
先生は教室の外の花壇の縁に腰かけ、私たち生徒は思い思いに取り囲み聞き入ったものです。

 忘れてしまっている細かい部分はあると思いますが、おおすじはこんな感じです。
戦争が激しくなってきた頃の上野動物園での実話です。
動物園は空襲で園内の動物たちが町に逃げ出さないように処分を命じられました。
当時上野動物園には3頭の象がいて、飼育員たちは仕方なく殺そうとします。
最初は餌に毒を混ぜて与えてみましたが、彼らにはそれが分かるので食べてくれません。
次は毒を注射しようとしましたが、象の皮膚は固く分厚いので針が刺さりません。
どうしようもないので、餌を与えずに餓死するのを待つしかないという事になってしまいます。

 子供だったとはいえ、もうこの時点で既に飼育員のつらさを想像してジーンとしていました。

 餌をもう何日も貰えず、象たちは衰弱していきます。それでもふらふらの象は飼育員の顔を見ると、彼らの覚えている芸をするのです。そうすれば餌を貰えると思っているからです。
でもとうとう力つきた象たちは死んでいきました。
最後の最後まで「ごはんください」と芸をしながら。

 当時はまだ人の死には直面したことはなくても、飼っていた数匹の子猫のうち一匹が病気で死んでしまった姿と重なり大泣きした事を覚えています。
それ以来、親には何も言わなかったけれど、苦手なものが食卓に上がっても「好き嫌いしてはダメ」と自分に言い聞かせて頬張ったものです。
また、戦時中を生きた祖父母はいつも「物も食べ物も粗末にするものじゃありません」と厳しく教えてくれていました。「ドリフの全員集合」でメンバー同士がパイを顔にぶつけるシーンを見ると(本当に食べられるものと思い込んでいたので)腹が立ってしかたありません。笑いもせず画面を睨みつけるので、周りの大人に気味悪がられたものです。
 クラスの中には給食が食べられずにいる子が決まっていたものです。意地悪することはないものの、どうしても仲良くできなかった。
今ではアレルギー等の問題で仕方ないのでしょうが、当時自分の中でこっそり好き嫌い克服を決行中だった子供の私には「甘やかされた我がままな子」としか捉えることができなかったのでしょう。

 そんな思い出も合わさって、これは私の中に深く残ったものの一つです。

さくらの花びらさんのブログのおかげで、その後こんな出来事が上野動物園であったことを知りました。
もとの物語はつらい話ですが、その後談も一緒に現代の子供達にも伝えたいものです。
もう40年も前のことですが、今でも時々その先生の語り口と共にこの話を思い出し、目頭が熱くなります。
そして我が家では、野菜などの切れ端は手作り肥料になり、生ゴミはほんの少ししか出ません。