「本当のことを書かれて恥ずかしいなら、その制度を変えなさい」


『フィールドワークの戦後史 宮本常一と九学会連合』 (坂野 徹 著、吉川弘文館)

この書籍の紹介で興味深い対馬に関する記述があったので、取り上げてみました。

《 月刊WEDGEウェブサイト/ WEDGE Infinity 日本をもっと、考える 》
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3178?page=1

フィールドワークから見える戦後日本
宮本常一と九学会連合の仕事を掘り起こす

『フィールドワークの戦後史』
2013年09月27日(Fri)  東嶋和子 (科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)


 戦後の疲弊した経済状況下、海外はもとより、国内であっても研究者が大規模なフィールドワークを行なうことは難しかった。

 そんな時期に結成されたのが、人類学、民族学、民俗学、社会学、考古学、言語学の六つの学会による六学会連合(のち、「九学会連合」)という学術団体だった。

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  “忘れられた”フィールドワークの足跡をたどる
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 九学会連合は、1950〜51年の対馬調査を手始めに、時代が「昭和」から「平成」に変わった1990年の解散にいたるまでの間、日本各地で計11回にのぼる学際的な共同調査を実施した。

 渋沢敬三を会長とし、宮本常一ら戦後日本を代表するフィールド研究者が大勢参加した“国家的プロジェクト”だったといえよう。

 にもかかわらず、南極観測事業を含む華々しい海外調査に押され、次第に「なかば忘れられた存在」になっていく。
『フィールドワークの戦後史 宮本常一と九学会連合』 (坂野 徹 著、吉川弘文館)

 恥ずかしながら私も、九学会連合を知らなかった。言い訳めくが、著者によると、当時の共同調査参加者や関係者を除けば、現在では、これら九つの学会に属する研究者であっても、九学会連合の名を聞いたことさえない人が多数を占めるだろう、という。

 「そもそも現在では、国内はおろか海外であっても、研究者は気楽にフィールドワークに出かけるようになっている。いまやフィールドワークとは、わざわざ複数の学会が集まって共同で調査団を結成し、十分な時間をかけて準備を行なうような特別な行為ではない」のである。

 しかも、表層的にせよ、インターネットを通じて世界各地の情報が瞬時に手に入る現代においては、研究者が「現場に出会う」フィールドワークの意義は、かつてとは大きく変わってきている。

 そんななか、“忘れられた”フィールドワークの足跡をたどり、もう一度、戦後日本と日本人の姿の一端を浮き彫りにしてみせたのが、本書である。

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  宮本常一のターニングポイントとなった「対馬調査」
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 本書は、九学会連合の活動のうち、「フィールドワークという営みが輝かしいものに見え、研究者による共同調査が大きな関心を集めていた1950年代」の調査に焦点をしぼっている。すなわち、対馬(50〜51年)、能登(52〜53年)、奄美(55〜57年)における調査である。

 戦後、故郷の山口県周防大島で農作業をしつつ、全国を旅しながら調査や農業指導に携わっていた宮本常一が、本格的に研究活動に復帰するターニングポイントになったのが、この対馬調査であった。

 対馬調査は、宮本にとって「実に大きな収穫」であった。これを機会に「もう一度調査に専念してみたい」と思ったそうである。その後、宮本は、病気療養中だった奄美調査を除き、能登、佐渡(59〜61年)、下北(63〜64年)と計4回、九学会連合の共同調査に参加している。

 宮本のほかにも、若い研究者のなかには、この共同調査でフィールドワークの方法論を学び、その後の研究テーマを得るきっかけとなった者もいたという。

 本書では、そうした九学会連合の活動と宮本の活動をシンクロさせながら、彼らの足跡をたどっていく。

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  「本当のことを書かれて恥ずかしいなら、
              その制度を変えなさい」
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 著者の坂野氏は、自然科学や技術の歴史を対象とする科学史の研究者である。「もっぱら大学図書館などに所蔵されている公刊資料の分析にもとづいてフィールドサイエンスの歴史をえがいてきた」という。

 そんな著者が、“書斎”を飛び出して対馬、能登、奄美を訪ね、共同調査を追うように資料調査やインタビューを行ったことで、フィールドワークの二重奏のような効果が出た。

 とくに、共同調査が大々的に行なわれた現場において、「調査する側」と「調査される側」の思惑が微妙に交錯する姿が、興味深い。
 「九学会連合の研究者たちが各地で実施したフィールドワークは、調査団を迎え入れる地元側の期待、戸惑い、違和感、怒りなどさまざまな思いと時にすれ違い、また時に同調することになった」わけである。

 たとえば、こんなエピソードがある。

対馬調査の2年目、研究者らが出かけたところ、「うちの村の悪いこと、恥になることを九学会は書いた。もう村にいれない」と青年団が竹槍を持って、調査を妨げた。

 そこで宮本らが現地に出向き、「うそをついたのなら取り消す、あやまる。しかし、これは本当じゃないですか。本当のことを書かれて恥ずかしいなら、その制度を変えなさい」と諭して決着したという。

 宮本常一と渋沢敬三は、初年度調査後、上京した対馬の陳情団を助け、水産庁関係者に漁港改築の予算獲得をはたらきかけていたのだった。それがきっかけとなり、宮本は島の人びとからいろいろな相談をうけるようになった。

 宮本と渋沢らの活動の底流には、調査地と継続してつきあい、与え・与えられる関係になりたい、という意識があったようである。彼らによって、共同調査は学問上の成果のみならず、その後の離島振興法や離島振興事業に結びついていった。
 「調査日記やフィールドノートに記されこそすれ、論文や著作などの公刊物に書かれることは少ない」こうしたエピソードは、著者のフィールドワークのたまものであり、貴重な資料である。

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  戦後日本における「辺境」の
  複雑な事情を浮き彫りにした

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 あらためて三つの共同調査の時期に注目すると、対馬調査は、日本がGHQの統治下に置かれていた時期であり、初年度の開始直前には眼前の朝鮮半島で戦争が勃発するという特異な状況下だった。続く能登調査は、日本の再独立(1952年)直後。そして奄美調査は、沖縄とともにアメリカ軍政下に置かれていた奄美群島が日本に復帰(1953年)したことをふまえて実施された。

 つまり、三つの調査には「敗戦やその後の占領の経験が影を落として」いた、と著者はみる。

 <朝鮮戦争勃発直後に実施された対馬調査において調査団は、日本と韓国の領土問題に揺れる対馬の人びとに出会うことになったし、奄美調査においては、「本土」復帰直後の奄美の人びとの「日本人」だと証明してもらいたいという強い期待に遭遇することにもなった。対馬や奄美の場合に比べると、能登調査には敗戦や占領の痕跡は希薄だが、いっぽう、そこでは調査によって引きおこされた「調査地被害」をあとあとまで引きずることになった。>

このように、フィールドワークそのものが内包する課題とともに、戦後日本における「辺境」の複雑な事情を浮き彫りにしたのが、九学会連合の共同調査であった。

 <九学会連合の共同調査は、すべての植民地・占領地を失った戦後社会にあって、「辺境」地域のフィールドワークを通じて、「日本人」「日本文化」を(再)定義する試みだったと考えることができるだろう。>

 著者は、日本の戦後史における九学会連合共同調査をそう位置づける。

 高度経済成長とともに九学会連合は「その歴史的役割を終え」たのかもしれないが、ふたたび日本列島の辺縁がきな臭くなってきた昨今、対馬をめぐる日韓の軋轢や、「日本人」の証明を求めた奄美の人びとの心情を振り返るのは、大いに意味のあることに違いない。

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紹介者は「すべての植民地・占領地を失った戦後社会」と書いています。
この見解には全く共感できませんが、少なくとも「日韓の軋轢」や「ふたたび日本列島周辺がきな臭くなってきた昨今」という認識は大多数の日本人が共通して持つものと思います。

著書に話を戻すと、これは終戦直後、約60年前に始まった研究活動についてです。
研究者に接した、この頃を直に体験した方は、現在そう多くはいらっしゃらないでしょう。

島民の生活もすっかり様変わりすると同時に物の見方も変化してきていることと思います。
特に近年、韓国の日本に対する動きが与える影響をもろに受けてきた対馬です。
韓流ブームのような虚飾ではなく、大昔から韓国人の実態を見てきたのも対馬の人々です。
60年前とは逆に、対馬の韓国への対処が本土へと教訓を与え、他の地域の日本人がそれを参考にするといった現象が起ってもいいのではないか。と期待します。